精神科医・名越康文さんエッセイ 第14回

「場をやわらげる人」がやっている無知の作法 知識とは相手を拒絶するもの

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「場をやわらげる人」がやっている無知の作法 知識とは相手を拒絶するもの

「精神科医・名越康文さんエッセイ」
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みんながどことなく緊張している場面でも、ほんのひと言でふわっと場をやわらげてくれる人、いますよね。どこでも重宝されるそういう「有能な人」には、あるコミュニケーションの作法があると精神科医の名越康文(なこし・やすふみ)先生は話します。名越先生も実践中だという、その作法とは?

「場をやわらげられる人」がやっていること

「有能な人は、すべてについて有能である。無知にかけてさえも有能である」

前回紹介した16世紀のフランスの哲学者モンテーニュの言葉。特にこの「無知にかけてさえも有能である」ってところは、すごく示唆的ですよね。僕の解釈では、「自分が無知であることからでも、話を立ち上げてくることができる」っていうふうに感じたんです。

自分は無知だから教えてください、っていうところから、どれだけ場の話を豊かにできるか。たとえば堅苦しい議論の場で「僕、不勉強ですいません。どういうことでしょうか?」って率直に言ったら、多分はじめはみんなから鼻で笑われますよね。

「こういうことですよ」「あ~、そうなんですか。じゃあ、これはこういうことですか?」って、また無知をさらけ出す。でもそこに、場の緊張をやわらげるような人としての可愛げがあったりする。でも可愛げというのは、えくぼや下がった眉のことではなくて、やっぱりそこにツボを心得た切り口の質問があるからなんです。

すると相手も「お、こいつの質問いいな」「意外にちゃんとした経験値を積んだやつだな」とかわかってくるんです。そうすると素直さを認められて、相手によしもっと教えてやろうという気持ちを起こさせたり、そこから結果的に場全体の集中力まで高めてしまうことさえ、実際にあると思うんですよ。

それができる人って、「無知」な状況においても「有能」ですよね。ちょっとした言動からにじみ出る人間性、可愛げとか品の良さとか、優しさとか素直さとか。そして何と言っても相手の話にハッとして、興味を持てるこということ。モンテーニュは全部「有能」ということの一端である、と言っている気がします。

もっとも有能な人とは?

要は「知識」と「有能」は全然違うっていうこと。

「知識」っていうのは、本質的に他者を拒絶するところがあるんですね。それは“私”が持っているもので、自分ひとりの中で成り立っている、自分の体系の中で完結しているっていうことだから。

だけど「有能」というのは、いろいろあるけれど、現実に即応していて他者との間で発揮されるもの。ひとつの置かれた状況や場所の中で、自分の能力を十全に機能することができる。その意味ではコミュニケーションの中で初めて成立する概念と言えるわけです。

でね、「有能」の中でもさらに上位なのは、人をインスパイアする、ということやと思うんですよ。つまり自分ひとりの能力が発揮できるだけでなく、その行動や言動、立ち振る舞いなどが知らず知らずのうちに他人に影響を与えて、たとえば仕事のチームメンバーを発奮させるような“徳”のこと。

まずは自分が能力を十全に発揮できる。これは小乗的、つまり自分本位の有能さです。だけど大乗的、つまり他者救済にまで広がる有能さっていうのは、相手を動かしてしまう。相手の心に火をつけてしまう。相手のアクティビティを上げちゃう。

三段論法という思考には限界がある

ただ相手を動かす際、指示・命令しているっていうのは、やっぱり小乗的でね。それはどこかで相手の反発を買うんですよ。

たとえば仕事のプロジェクトにおいて、「指示・命令のとおりに動け!」なんていうのは最悪で、それ一回は完璧にできるかもしれないけど、次につながらないと思います。

人間はやっぱり、主体的に動きたいんですよ、誰でも。だからここで言うところの有能さっていうのは、相手を主体的に動かしてしまう力のことです。相手からの能動的な働きを引き出すことができれば、自分もいろいろ学べるし、相手との絆もすごく深まる。結果的に場の総合的な能力もどんどん高まっていく。

そういう力の大切さをこそ、「有能」という概念でモンテーニュは説明しているのかなあ、とも思うんです。

たとえば、いまね、「三段論法」という西洋式の思考法が世界の基本になっていますよね。ざっくり簡単に言うと、AとCは等価である。BとCも等価である。ならばAとBも等価である。こういう確実に真なるものを突き合わせていって、整合的に物事を証明したり、論理を構築するやり方です。

でも本当は、古代においては「五段論法」というのがあったんじゃないかって。実は先日、偉い阿闍梨様から──阿闍梨っていうのは模範となるような高僧のことですけど、仏教のお経の中に五段論法が使われているという話を聞いたんですよ。実際、インドの三段論法に当たるものは、五段重ねの構成になっているって言ったりもしますよね。

でもね、それ具体的にはよくわからへんねん。いまのところ僕は、ちゃんと一般にわかりやすく書かれている本とか論文に行き当たってないんですよね。だから勝手にね、「五段論法ってどんなんやろ?」っていろいろ想像しているんですけど。

つまり三段論法っていうのは、理論的に最短距離で結果を得る思考法でしょう。ガチガチの理屈だけでシンプルに固めていくから、手続きが少なくて済みますよね。そうやって合理的に、最も短時間で説明するっていうのは、時間的にも経済的だし、便利なんやけど、多分に「説得的」だと思うんですよね。つまり一方的に正しさを突きつけるためのもので、相手が自分の主体性を発揮する余地がない。

想像力をかき立てる「五段論法」

そもそも現実って、そこまで合理的にくっきり構築されているものではないですよね。

たとえばAさんがBさんに「これをやって欲しい」と指示した。すぐにBさんは「はい、わかりました」と答えた。でもあくる日、なぜかBさんはそれをやらなかった。それは何を意味しているのか?

つまり「指示したことをBさんがやらなかった」っていうイレギュラーなことが起こった時、それをキミはどう思うか?って問われたら、みなさんはどう答えるか。「きっとAさんに反発を感じたんだ」とか、「いや、Bさんは改めて全体のことを考え直して、いまそれをやるべきではないと判断したから、怒られることを覚悟してやらなかった」とか、「いや、単に失念したんでしょ」とか。

いずれにせよ、それぞれがBさんの行動の理由を主体的に解釈していくことで、様々な「横のバリエーション」が出てくるじゃないですか。隠されていた裏の真実、とか。一見悪意のような行動の裏に、実はものすごい善意があったんじゃないか、とか。

江戸時代にできた文楽(人形浄瑠璃)や明治の初期に生まれた語りの芸能「浪花節」には歴史上の人物のみならず、さまざまな当時の世相や庶民の義理人情の物語が出てきます。一見わかりやすいストーリーなんですけど、これって表面的な理屈を超えていくような転倒した筋がよく組み込まれている世界なんですね。「悪と思っていたものが善だった」とか、「善に見えるものに、悪の可能性がある」とか。

意識と無意識が両方働いているような、人間の複雑な感情を理解していないと決してたどりつけない世界。理屈の裏には常に感情がある。いかにも正しそうな理屈の裏にだって、理屈の部分が楯になって隠されているその人の私的感情があったりする。それはもう論理じゃなくて、ひとつのエピソード。あるいはストーリー。物語っていうのは、複数の解釈ができるってことやと思うんですよ。

で、僕はね、五段論法っていうのはそういうレベルを含むものじゃないか、と。聞くほうが解釈をしていく、その意味を自分でつかんでいく余地がある議論じゃないかな、と思っているんです。

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精神科医・名越康文さんエッセイ

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